電波─違うところでアニメを見ると違って見えるか?

今この記事は平塚の漫画喫茶から書いてます。今日は夜遅くまでラジオの収録をやって(なんとかなりました)、それから青春18きっぷで九州の田舎へ帰るために少しでも歩を進めようと平塚まで来たわけです。
 
今回は本当にラッキーで、身分証明証を持たない不審者の自分をお店の方が渋々入れてくれて(漫画喫茶・インターネットカフェってところは会員登録ができないと高くつくのです)、テレビつきの漫画喫茶に朝まで入ることができて、涼風の最終回をリアルタイムで見ることができたのだけれど、ここのテレビがお世辞にも良いものとは言えなかった。14インチのもっこりブラウン管だし、ゴーストは出まくってるし、音はモノラルだからヘッドホンしても左からしか音が聞こえてこないし、右耳からはヘッドホンごしに店内のBGMが入ってくるし…という有様なんだけども、涼風の最終回は最高に面白かったのが不思議。むしろこういう環境だったからこそで、自宅で見ていたらそれほどでもなかった…という可能性も否定はできません
 
常日頃、人が何かを見て、例えば「面白い」とか「つまらない」とか、「好き」とか「嫌い」とかそういった印象を抱く行為っていうのは、もちろん作品の良し悪しもあるけれど、あるいはその振幅とか深度とかについて言えば、そのときの物理的・心理的環境に大きく左右されるものなんだろうなと強く感じています。ならばそれを良い方向に利用したいとも考えます。一方で、そんなあやふやな自己の感性の主体はどこにあるのか、と疑ってみたりもします。
 
放映中のアニメ「ノエイン」は量子力学の考えを柱としたサイエンスフィクションですが、そこで説明されているように、もしかしたら、あるアニメについて「面白い」と感じた自分と「つまらない」と感じた自分が両方いて、そのどちらかがたまたま選ばれただけじゃないのかな、とか、そういった突拍子もない疑いも全くないわけではない。
 
自分の中で払拭できないでいる、そういった不確定要素を収束させるために「書く」ことで自己を補強しているといったら、的が外れているかもしれませんが。