「中の人などいない」モデルから「影絵」モデルへ

 
最近このblogで扱っていたネタは、ドラえもん事件からはじまり「一般人にとって声優とはどういう存在なのか」「そもそもアニメーションにとって声優とは何なのか」「声優を楽しむとはどういうことなのか」というきわめて根源的な問題についてでした。
 
こういった問題について、スパッと、皆が納得してくれる答えを用意するというのは不可能かもしれませんが、「まぁ、こんな感じなんじゃないの?」というたとえ話−モデル−は提示できるかもしれない。今日は影絵というモデルを提示して、これらの問題を解釈してみようと思います。
 
 
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その前に、簡単に「中の人などいない」モデルについて説明しておきます。これはアニメーションにおけるキャラクターと声優の関係を、「被り物」と「中の人」に例えるモデルです。これはどういうことかというと、
 
「中の人などいない」モデル:
「被り物」は「被り物」ではない。「生き物」である。だから「中の人」などいない。

 
という説明がシンプルでわかりやすいかと思います。これと同じようにして、アニメを見る。そうすると、キャラクターに対して、「誰かが絵に声を当てている」ということは視聴者は意識しなくてよい。その上、「キャラクターが生きているから、動くし、しゃべる」ということすら、意識しなくてよい。(それは、街中ですれ違う人を見て「この人は生きている」などと思わないのと、同じ。)視聴者はただキャラクターの動くさまと、ことの成り行きのみを見て居れば良いわけです。
  
「中の人などいない」モデルによって説明できる視聴者の見方というのは、これはこれで完成した見方だ、と鳥猫は主張したいですが、これじゃ納得できないよ、という人が世の中には大勢いるわけです。「もう大人なんだから中に人が入ってるくらいわかるよ、それでも騙されなくちゃいけないの?」と。そういう人たちがアニメーションを楽しむにはどうすれば良いのか。またその心持ちはどういったモデルで説明できるのか。そこで今回は「中の人などいない」モデルから一歩踏み込んだモデルとして、「影絵」モデルを提示したいと思います。
 
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一口に影絵と言っても、大きく分けて三種類があります。
・動かない影絵。紙やセロハン等を絵の形に切って、後ろから光を当て、絵として見せる。
・影絵劇。人の形に切った紙を棒に貼り付けて、動かして劇として見せる。
・影絵遊び。障子の向こうに両手をやって、影を犬の形などに作って動かして遊ぶ。
今回モデルとして使用したいのは三番目の「影絵遊び」です。皆さん一度は遊んでみた経験がおありだと思いますが、イメージの助けになるようにこちらのサイトhttp://yuanryan.ld.infoseek.co.jp/No065.htmの影絵遊びをしている子供たちの絵(切り絵)を紹介しておきます。(故木村祥刀画伯による「影絵」)
 
さて、このモデルではアニメーションにおけるキャラクターと声優の関係を、「障子の上で動く影」と「障子の向こうで動かしている手」の関係に例えます。
このモデルの特徴は、
・キャラクター(影絵)そのものが生きていないことは誰の目にも明らかである。
・キャラクターを表現する、キャラクターとは別の存在(障子の向こうの手)がいることも誰の目にも明らかである。
・先の二点を踏まえた上で、影絵遊びという全体を楽しむことができる。
 
ということになります。どの点も「中の人などいない」モデルとは大きく違っています。
2番目の点をもう少し詳しく記述してみますと、
 
影絵というのは、障子の向こうの手が動くから、影が動いて見える。影の動きのみを追っているだけでも楽しめるけど、見ている側(受け手)には「どうやったらこの犬の形は再現できるのだろう?」とか、「どうやったらこの犬があたかも生きているかのように活き活きと見せることができるのだろう?」と言ったような想像、解釈、遊びの余地がある。これは受け手が、明示的に、表現者である「障子の向こうの手」を認識できるからに他ならなくて、影絵を通して“表現者そのもの”を受け手が解釈することにも繋がってくる。
 
つまり「影絵」モデルとは、受け手がキャラクターの向こう側にいる表現者を明確に認識し、表現者そのものまで解釈しようとするモデルだと言ってよい。
 
アニメーションを影絵のようにして見れば、「あたかもキャラクターに当然のように備わっていたはず」の声というものが、「声優」という、キャラクターとは別の存在による表現である、というように自然に解釈することが可能になります。そして、重要なのは、「影絵だと認識した上でキャラクターを見ても」面白さが損なわれるわけではない、ということ。
確かに「面白さ」の質は違います。「中の人などいない」モデルがキャラクターたちの立ち回りのみを見て居れば面白かったのに対し、影絵モデルでは、影の動くさまを見て面白い上に、表現者がどういう風に手を動かしているかというところまで想像、解釈しても面白い。だから「面白さ」の質は二つのモデルでは違ってくる。だけど面白くなくなったわけではない、とここでは力を入れて主張します。
 
ここまでが影絵モデルの概要でした。影絵モデルはアニメーションにおける声優を表現者として認識した。じゃあ具体的にその表現をどう解釈するか、具体的にどう楽しむのか、というところまでは、今日は扱いません。それは日常のこのblogで、他所のblogで、視聴者の各々で、行われるべきことです。
 
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ここで少し補足です。
 
混乱を避けるために敢えて別に書くのですが、アニメーションという媒体において、表現活動をしているのは何も声優だけではありません。作画マン、脚本家、音響監督、全体をまとめる監督、皆が表現者だと言える。その中に声優という表現者がいるというだけです。「中の人などいない」モデルが明確に対象を声優とし、それを否定しにかかっているのに対し、影絵モデルでは声優を表現者として認識するのと同時に、アニメーションという作品に携わる皆を表現者として認識する。「障子の向こうの手」は誰の手であっても構わないというわけです。
 
もう一つ、影絵モデルから導かれる声優の性質について。
影絵を見ている受け手は、「障子の向こうの手」の動きを想像し、それを動かしている人間の考えまでを解釈しようとします。でも、そこから先の情報は何もわからない。例えば、どんな背格好をしてるかとか、普段どんなところで生活をしているかとか、結婚してて子供は何人いるのかとか、そういう情報は、全く知りえないし、影絵以外の他の手段によってそういう表現者の側面というものを知りえたとしても、それは全てノイズである、と切って捨てても影絵を見る分には何も差し支えない。つまり影絵モデルを用いて説明される声優の存在というのは、非常に限定的で、影絵の上にしか存在しないものである、ということが言えます。これは「声優のタレント活動・否定」「アイドル声優・否定」「声優は裏方である」という考え方と相性がとっても良いですが、それ以外を説明できないという点で、違うモデルの必要性も感じさせます。
 
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今日の最後に
 
影絵モデルの目標は、アニメをたまにしか見ない一般の方の感覚と、声優オタク、アニメオタクの感覚をなるべく近づけよう、というところを目標にして、前日のモヤモヤ感をとりあえず払拭するために急造りで作ったというところもなきにしもあらずで、説得力がどの程度あるのか、客観的にちょっとわからないんですが、もし良ければ感想やツッコミなどいただけたら、と思いますm(_ _)m