涼風たまらん──話の流れでギャルゲーと対抗することに

放映開始当初は絵がヘタクソだなぁと思って見てたけど…極上のついでだった頃もあったけど…
アツイ。
妖精抜きのミルモよりアツイ。
「7月期は流し見ばっかだった」とこの前反省したばかりだけど、涼風はその拾いもんだった。
 
涼風には、ストーリーの大局というものがない。とっても場当たり的である。が、涼風の面白いところは、それが場当たり的であるがゆえにキャラクターが取るべきいくつかの選択肢が視聴者には見え、「自分だったら、こうするかな」という判断を(ある程度能動的に見ている必要はあるが)視聴者にさせ、その結果のアクションをすぐに返す。そうすることで、物語への没入感を深めているところだ。
 
具体的には…今週の話だけでもこれだけ(架空の)選択肢が見て取れる。
 
A.萌果の問いかけ「私たち別に(付き合ってるわけじゃないし)」→秋月はどう答えるべきか?
B.露天風呂で涼風「フフッ、大和くん元気になったわね」→隣に居る美紀はここで言うべきか否か?
C.一緒におみやげを買いに行こうと秋月を誘いに来た涼風→秋月は一緒に買いに行くべきか!?
D.直後、安信の前で萌果に遭遇→秋月はどんな顔をすればいい?
E.「この服大和くんに似合うと思わない?」→美紀はそろそろ言った方がいいのでは…
F.萌果は秋月を呼び出し「もう付き合うことになったから思い切って言うけど…」→直前までの萌果の思考・判断が見て取れる
 
Cなどは前後の会話にしても象徴的だし、BやEで美紀が涼風に本当のことを伝えていなかったら、他の展開が待っていたかもしれない。ストーリーを左右しているのは秋月大和一人ではなく、萌果や、ときには美紀のような脇役も一役買っている。その点ではあんまり迷うことのなさそうな涼風や安信の関与は薄いのだが、彼らは彼らの役割があるから良しとしよう。
 
「恋愛モノ」「選択肢を選ぶ」と聞いてすぐに思い出されるのはいわゆる「ギャルゲー」と呼ばれるAVGの類であるが、当然涼風のそれとは大きく違っている。ギャルゲーの場合、物語の展開は全てプレイヤー=主人公に委ねられており、結果的に物語の他者への依存度は低くなる。また、ライターの作業量、およびゲームである以上少なくても確保しなくてはならないゲーム性のことを考えると、選択肢のあとに続くのは「(主にキャラ描写のための)小噺」か「好感度の上げ下げ」か「大局を左右する見えないスイッチ(フラグ)」になりがちである。
 
ここに「一本道シナリオ」であるはずの涼風の付け込む隙がある。つまるところ、涼風は物語の中で提示される架空の選択肢と、その結果との因果関係を、ギャルゲーのそれよりヴィヴィッドな物にした。架空の選択肢の数そのものも、ギャルゲーのそれよりずっと多いから、話がどこで転ぶかわからない。結果的には画面を注視する他なくなるのだ。またその側面として、ストーリーの担い手を主人公一人から複数に任せることで、群像劇としての色合いも強めている。
 
…ということで「涼風が面白いのはなぜ?議論」を一人でやってみました。でもギャルゲー引き合いに出さないといけなかったのかな。