ドラえもん事件のその後 「完全な見方」編

 
こないだ一般人の友人(この言い方も嫌だな)のR君と昼飯を食べていたときのこと。
彼とはよく「将来お金はどのくらい欲しいか」とか、青臭い話で盛り上がる仲なんですが、この前なんとなく「ドラえもんの声変わるんだって〜」とこちらが切り出したら、意外と食いつきが良くて。ラジオで聞いてたらしい。
「俺ルパンの声もいまだに馴染まなくてさ〜」という彼の意見は、否定派なのか。ほほう。
その後話の流れは金ローからゴールデン洋画劇場へ、ターミネーターとかバックトゥザフューチャーとか昔見た映画の話題の方に移り、ドラえもんの話はすぐに終わったのですが。
 
ドラえもんの声優」という限定的なケースではあるけども、誰が良いとか悪いとか、変えてほしくないとかまぁいいんじゃないとか、いろんな人が声優についての意見を持っている今の状況っていうのは、ちょっと面白い。
 
まぁ、そうは言っても、多分R君には「声優を語っている」という意識はないです。一般人だし。アニメのドラえもん、そのキャラクターの声が変わる、ということに対して、嫌か、そうでないかという反応だと思います。つまり作品でありキャラクターが、彼の視点の中心であると見える。
まぁ、でも、キャラクターの視点から見たら答えはひとつで、議論の余地はないんですよね。そんなの変えてほしくないに決まっている。つまりキャラクターを一つの人格、生き物として見て、そこに当然のように備わっているのがキャラクターの声なんであるから、それが変声期でもないのに変わるはずがない。と。
 
視聴者の、そういったアニメの見方というのは、ある意味においては完成された、完全な見方であると言えます。自分ら声優オタクが必ずしもそういった見方をしてないからといって、彼らを責めることはできない。
ただ、今回少なからず不幸であったのは、その「完全な見方」を「25年続いてきたキャストを変更する」ことによってつき崩してしまう、というところにある。だから、反発が出るのはしょうがない、という風に解釈を立てることもできます。
 
アニメを作る側としては「新しい声に早く慣れてもらう」他ありません。また、慣れてももらえるだろう、という判断の上でのキャスト変更なのでしょう。
 
〜〜〜〜〜ここまではなんとかまとまった
 
視聴者の方にはすこ〜しだけ、選択肢があります。
「つき崩されてしまった完全な見方」の修復を待つ。つまり、新しい声に慣れる。声が変わったことすら忘れる。という選択肢が一つ。
 
もう一個は、
「つき崩されてしまった完全な見方」を一部分放棄して、欠けてしまったところを埋めるという選択肢。それは、たとえば
「ああ、声優さんももう高齢なんだからしょうがないね」…Lv1 完全であるキャラクター像の放棄・諦め
「アニメキャラつっても結局声優さんが声当てないとしゃべれないしね」…Lv2 キャラクターと声(声優)の明確な分離
「今までは大山さんががんばってたんだね」…Lv3 声優を個人として認識
「新しい声優さんのドラえもん楽しみだね」…Lv4 個人の声優から声優そのものの認識
 
まぁこれは適当なたとえですけど、要するに、キャラクター以外の違うところを見始める選択肢があるってことですね。この方向で突き詰めれば声優オタクになっちゃうし、どこか途中で納得がいけばそこで打ち切ってもいいと。
 
こんな時代ですから(皮肉っぽく)、本当に「完全な見方」をしてるのって小学校低学年の子供くらいしか居ないような気もしますけどね。R君は実際どの辺なのかなぁ。(R君には自分がオタクだということを話してないので、詳しく訊けないんですよ)
 
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さて、ドラえもんの声が変わることに対して、不満を持っている人というのは「完全な見方をしてる人」の他にもまだ沢山居て、その中で何となくこのblogで扱えそうなのは
大山のぶ代という人の力量と長い年月によってドラえもんは形作られてるんだから、何にも替え難いだろう」という意見。まぁ、それはその通りなんですけどね。
今日のところは「新しいドラえもん、見たくないか?」とでも書いてお茶を濁しておくことにします。