声優語りと著作権

 
いやね〜懲りずにBSアニメ夜話見てるんですが、声優の話出てきませんね。
もう3日終わって唯一話題に出たのが1日目の「私的には999は池田昌子の声」これだけですよ。
悲しいですね。
 
なんていうのかな、声優語るのってゼロから語れないもんかなと思います。語る上での前提条件が必要なのかなっていう。作画の話だったら初代ジョーは線が太くて荒くてジョー2は線が細くてそれはもう一目瞭然で。誰の目にも同じように映って。
それを元に「それはこれこれこういう理由でこういう画材使ってたから…」とか「宮崎駿以降線が細くなって…」というように話を発展させられる。これはとっても羨ましい。
 
でも、声優の演技って言ってしまえばイメージの世界なんですよね。「あたしあなたのこと嫌いよ」ってセリフを耳にしても、「アタシアナタノコトキライヨ」と日本語をしゃべっているのは日本人なら誰でも同じようにわかるけれど、「単なる日本語の言葉の連なり」を「セリフ、演技、キャラクターの感情表現」と解釈するには個人のイメージングというのが必要になる。作画の話にしたって個人の印象に依存するところはあるけれど、声優語りと比べると土台はしっかりしているよと。声優語りは土台からしてゆるいんですね。
 
でも、ここで引き下がるわけにはいかなくて、例えば「この部分のセリフ」を、「俺はこういう風に解釈したぜ」という論法は成り立つ。セリフを元に、セリフそのものではなくて自分のイメージングを説明しているわけです。今度はそれを元にして他者が自分のイメージングと比較することはできる。例えば、二つのイメージングが合致すればそのイメージングは正しいかもわからんね、という風に議論を発展させられるかもしれない。
 
ただし、ここには「記憶の揮発性」という問題が絡んできて、例えば声優オタク(A)と声優オタク(B)が居て、一緒に30分のアニメを一本見たとしましょう。そのあとに声優オタク(A)が「あそこのセリフをこう解釈したぜ」と主張したとする。声優オタク(B)がその部分のセリフをしっかり覚えていれば、上記のような議論ができますが、声優オタク(B)がその部分をしっかり覚えていなければその議論はあやふやでピンと来ないものになるでしょう。これを「記憶の揮発性による問題」と呼びましょう。
 
「初代ジョーの線は太い」とか「ジョー2では吐しゃ物がなぜか光ってる」という記憶は揮発性が低い。しかし「声優のここの演技が上手い(と思った)」というようなイメージングによる記憶は揮発性が高いんですね。それによって「記憶の揮発性による問題」による影響が深刻であって、議論すらできないことがあると。
 
これを解決するには手段的には簡単であって、「セリフの原音(ソース)」を提示して、それを元に議論すればよい。声優オタク(A)と声優オタク(B)が同時にイメージングしますから議論が容易になります。別にこの手段は声優の話に限らず、「マンガ夜話」や「アニメ夜話」で単行本、動画を見せるのと全く同じ話です。
 
厄介なのはこれで「うん、良かったね、万事解決」とならないことですね。
だって、現実世界にそんなことしてる人居ないですよ。だいたい30分のアニメ一本見終わって
なんとなく「あの声優が良かったなぁ〜」とか「あのセリフ好きだなぁ〜」とか言うことはあっても、「その部分を切り取って議論の題材にしよう」なんて思うおめでたい人は居ません。でもそのくらいのレベルからしないと本当は議論って成り立たないんですよ。だから自分も本当はそのくらいやりたい。でも、著作権(やっと出てきた)の問題から個人でどこか切り取ってネットにアップして「ここにこの声優の良さが表れてるね〜」と広く主張するなんてことは今の常識ではできない、というわけです。*1
 
合法的にこういうことが可能になればちょっと面白いんでないか?と思いますが。
例えば許可取ってそういうマニアックな雑誌(付録でつぎはぎDVD・エディターの解説つき)作ってみるとか。例えばですよ。
あとは音声ファイルに電子透かしを入れて著作権保護しつつ、個人で楽しむ分には自由に共有できるとかね。夢のような話。
そういう風になるとちょっと状況が違ってくるんじゃないのかな〜。
だめですかねぇ。
 
 
…しかしこんなことを書くと、余計「声優のことについて何か書く(記憶は揮発しっぱなし、読む人はそのアニメを見たことがあるかさえわからない)」というこのblogの首を絞めているような気がしないでもない。(−−;
もっと最近のアニメを中心に何か主張した方がいいんでしょうねぇ。

*1:裏を返せばアニメ夜話では可能ってことですね