オカルトってどうよ

先日、暇なので某書楽へ行って「大槻教授の反オカルト講座」を読んでました。
出版社の紹介ページ:http://www.villagecenter.co.jp/book/ootsuki.html
知らなかったのですが、大槻教授、10年にも渡って反オカルトの連載してたんですね。「噂の真相」が休刊したので、「ダカーポ」に移って今もやってるらしいですが。
読後の印象として、大槻教授に対して割と好感を抱きました。氏の主張としてはこんな感じ。
 
ひとつ。「科学ではまだ説明のつかないことが…」というマスコミの煽り文句が煽り文句であることを重々承知しなくてはならない。科学にとって未知であることと、自分が無知であることは違う。
ふたつ。論理的根拠に基づかないオカルトは、同じく、論理的根拠に基づかないファシズムと結びつく危険性を認識すべきである。
 
ひとつめの論旨が印象深かったのですが、テレビ番組でオカルトを語る人は、たびたび「科学的な裏づけ」と称して検証を行い、それを見た視聴者は「科学的な検証がされている」と信じ込んでしまう。でも大槻教授は科学的な検証は何もされてないと一貫して主張していて、実際紙上でも多くの反証をされています。「科学的」という言葉に弱い視聴者が逆に非科学的なオカルト側に利用されているという図式が見えます。
 
これは確かにそうなのですが、じゃあ視聴者がみな物理の素養を見につけていなければならないかというとそれは無理な道理だし、人々に対して科学的、論理的な根拠だけを拠りしろにして生きよというのは酷な話だし、難しいなと思います。大槻教授自身も個人の宗教観といったところまでは踏み込んではおらず「見てインチキとわかる」オカルトをひとつずつ潰していってるという感じ。ご苦労なことだなぁと思いますが割と楽しそうに書いておられるのが救いでしょうか。
 
「科学」っていうのは、よく言えば「人類の英知の積み重ね」であって、粗末に言ってしまえば「他人任せで成り立っているようなもの」なので、何から何まで把握して、自分のものにするのはほぼ不可能に近い。立花隆さんのような知識欲の塊のような人でもオカルトの片棒を担ぐことがあるし*1、自分の短い一生では到底「知識の高み」へは到達できないだろうな、と思うのですが。だからこそ、自分の感覚が、何を感じ、そこから何を思うかが、自分が生きていく上で大事なのかなと。
 
そうやって半ば「諦め」の気持ちを抱きながらも「科学発展の一端を担いたい」という気持ちも自分の中にはあります。これはジレンマではなくて、両立するものだと自分は信じたい。
 

*1:氏の「臨死体験」は中学のときに読みました、氏は飽くまで科学的な姿勢を取っているように見えますし、どちらが正しいとも言っていませんが、彼の著作によって“非論理的な何か”を刺激された人は多いようです。